身体障がい児(難聴)時代 その1

こんにちは、身体障がい者のアッシャー木村です。私は視覚障がい(網膜色素変性症)と聴覚障がい(感音性難聴)の2つを合わせ持つアッシャー症候群と呼ばれる難病を抱えています。

しかも数万人に1人という選ばれし逸材です。進行性の病気のため、弱視+難聴の今だから出来ること、伝えることが出来ると信じています。

ここでは、身体障がい児として過ごしてきた幼少期の頃からさかのぼってお話致します。物心ついた時には既に補聴器と共に生活をしていたので、覚えている記憶の範囲でとなることをご了承ください。

幼少期時代

きっかけは2歳の時に両親の呼び掛けに反応がなかったり、TVに近づいて見ていたことから始まりました。耳鼻科での診断は感音性難聴でした。症状は言葉自体は聞こえるが何を言っているのか分からないという状態です。

音は認識できていてもそれが何の文字なのか?理解できていない。大人になった今でも

「え?え?なんて?」

と聞き返すことはあります。まるで

「ラッスンゴレライ!」

と聞いたかのような反応をリアルで起きる訳ですね。

下記のような症状が見受けられたら、一度耳鼻科へ診てもらいましょう。

・低い音は聞き取れるが、高い音が聞き取りづらい

・言葉の聞き間違いが多い(「七(しち)と一(いち)」「加藤(かとう)と佐藤(さとう)」など

・騒がしい中で、特定の人の声を聞き分けることが難しい

引用元:感音性難聴の特徴や原因とは?|シニアのあんしん相談室

それから全く記憶にはないのですが、車にひかれて足を骨折したことがあるらしいです。もしかしたらそれも車の音などが聞こえにくいことから起きた事故なのかもしれないですね。

ただ単に「ウフフフ、アハハハハッ★」と蝶々に夢中になって道路に飛び出しただけかもしれませんが(汗)

程なくしてポケット型の補聴器を使用することになります。イメージは携帯ラジオのような四角い機器を胸ポケットに入れます。その機器が周囲の音を拾ってイヤホンで聞くという物です。

3年保育の幼稚園に入園することになります。当時の記憶は母親と離れるのが嫌で泣いてしがみついていたのを覚えています。

今もトラウマとしてあるのは給食で食べるまでいつまでも残されていました。食べても吐いていたので野菜嫌いの偏食家になったのもココの記憶がベースにあると思います。そして、それが理由かはわからないですが、しばらく1ヶ月前後休んだこともありますね。母親に諭されて再び通園することになります。

卒園時の先生からのメッセージを見ると

私は

「やんちゃボーイ」

だったようです。

次回につづく。

【次回予告】アッシャー症候群(USH)に光を照らしておくれよ!

「USH!」「USH!」アッシャー症候群 TypeⅡのアッシャー木村がお送りする

拝敬!パイナップル先輩!!

今回の語りは人生最高のパートナー補聴器との出会い。先天性なものだからその出会いは遺伝子レベルで切っても切れない関係。もはや必然!

アッシャー木村の未来は一体どこへ向かうのか!?

次回、第2語ン
「ちょっと何言ってるかわからないです」

パイナップルを片手に絶対(ぜってぇ)見てくれよな!

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